バギオ慰霊碑公園の由来
バギオ慰霊碑公園は、1972年10月2日より建設が開始され、1973年2月11日建国記念日に完成されました。
この公園の土地は、バギオ市から提供して頂き、公園内には、茨城県筑波山産出の総御影石で制作された重量27トンの「英霊追悼碑」が設置されております。
資金は、日本全国の生還者・遺族の方々の浄財によりまた、バギオライオンズの協力により建設されたこの公園は建設以来50年が経過し、この維持管理された公園は、現在、バギオ市の文化遺産と認定されております。
この慰霊碑本体は、伊藤忠商事の協力により1972年11月27日マニラ港に到着、戒厳令下諸種の事情により、長期間通関できずマニラ港に置かれたままとなりましたが、バギオ市長ルイス・ラジサバル、ライオンズ会長カテイン、フィリピン商工大臣トラディオ・キャソン、朝日新聞マニラ支局長斎藤清、バギオライオンズクラブ理事リカルド・カリガン、ジョニー・ゴンザレス、ベルナルド・サンチャゴ、カルロス・寺岡諸氏の協力により、やっとの思いで通関を済ませ1973年1月18日無事バギオに到着しまし。
マニラ港での通関の遅れから、バギオ到着が遅れたため、2月11日の除幕式まで残り3週間余りとなってしまいました。吉田亀次氏に寄贈して頂いた慰霊碑本体重量27トン、77個の御影石を素人集団が組み立てることは不可能です。そこで中心部分の「英霊追悼碑」に設置には、アメリカ軍よりクレーンをお借りして、アメリカ軍人の操作により中心部分を設置することができました。ここに日比米三国協力による、恒久平和を祈る「英霊追悼碑」が完成しました。
碑のバギオ到着が遅れたため、決定されている除幕式2月11日までには十分は工事日数が残されておらず、1日120人の人夫が二交代で、最期の1週間は三交代の急工事の上、1973年2月11日午前5時、碑本体、公園共々全工事が完成いたしました。
この経緯については内閣総理大臣田中角栄氏、厚生大臣佐藤邦芳氏、衆議院議員塩川正十郎氏自筆の由来書が残されており、多方面の皆様の様々なご尽力、ご支援を伺いしることができます。
毎年、休むことなく続けられてきた慰霊祭には、バギオ市長、在日日本国大使館代表、バギオライオンズクラブ、日系市民、在留邦人の皆様参列され、日本からの参加者の方々共々、英霊に感謝の誠を捧げてこられました。私たちが今あるのは、戦没者の方々の尊い犠牲と、生還者や遺族の皆様の並々ならぬ努力の賜物であることを忘れてはなりません。
バギオ戦没者慰霊碑公園は現在、バギオ文化遺産に指定され、多くのバギオ市民に親しまれております。あの悲惨な歴史の記憶を継承しつつ、日比の友好関係を推し進めていく、それが当会に課された使命です。
現在の「友好の懸け橋」を「限りない可能性を秘めた未来」に繋げるべく、一般社団合人日比国際友好協会は活動してまいります。